kimono Internet Clubロゴ kimono Internet Club
kimono Internet Clubトップへ
このwebは「KIMONO Internet Club」の会員を中心に運営されています。
きもの日誌

きものライフを応援します
きもの歩き
きもの歩きの
バックナンバー


きもの歩き
新撰組が生きた京都 伏見 03.12.12

 混沌の幕末。信念と強い心を持ち、新しい時代を模索し続けた新撰組。
京都の治安を守るための警察部隊であった彼らは自国に誇りを抱き、広く海を越えた世界観を持っていました。
国際平和に憂う今の日本にあって、彼らに向かい語りかけたいことがあります。
時代を超え私たちに教えてくれるものは何なのか、今回は舞台を伏見に移しその軌跡を訪ねてみたいと思います。
ひんやりとした初冬の京都、きものの肩越に羽織るショールの襟をきゅっとかきあわせ、ちょっと凛々しい面持ちでいざ、ゆかん!
 市内南郊に位置する京都の伏見は、新撰組や坂本竜馬ゆかりの地として、また酒どころでも知られる静かな城下町。車の往来が激しい主幹国道に挟まれる位置にあって、そこには幕末の混乱と騒動を伝える数々の史跡が残っています。
慶応4年、藩長軍と幕府軍による「鳥羽伏見の戦い」の際、薩摩軍の陣営となっていたのが「後香宮神社」。南側の伏見奉行所には新撰組や会津藩兵を含む旧幕府軍、薩摩砲兵隊は、城南宮方面(鳥羽)よりの砲声を合図とし御香宮の東側高台にある龍雲寺から伏見奉行所を本営とする旧幕府軍に撃ち込みをかけ大きな被害を与えました。その後、幕府軍は大きな被害を受け大阪方面へと敗走、当時の瓦版には「みんな嫌がる壬生浪(新撰組)も先に打たれるは気味よく冥土へ総勢逝く」と伝えられていたとか‥。
なんとも、当時の町衆の、新撰組に向けた悪評を伺うかのようです。
ひっそり佇む薩摩軍の陣地や伏見奉行所跡、また「鳥羽伏見開戦地」を示す石碑、戦い発端の地となった鴨川に掛る小枝橋に、当時の激しい激闘の様を想像することはできません。

 しかし、奉行所西側にある料亭「魚三楼」の表格子にはしっかりと残る弾痕を発見。確かにここが戦の地であったことを物語っています。
「この戦争がなかったら、日本の近代化は百年遅れた」とも。
幕府軍、藩長軍、どちらも「理想国家」に燃える魂を持っていた。ただ主義、主張が違っていた‥・
百数十年経った今の日本を彼らは、どんな目に見ているでしょうか。
商用車や配送トラックで込み合う師走の国道を横目に、そんなことを考えながら「寺田屋」へ足を運びます。
活気あふれる商店街を抜けぶらぶら歩くと、酒蔵が立ち並ぶ街並みが見えてきます。
独特の情感に酔いしれながら、酒を酌み交わし未来を語る志士たちの幻影を思い浮かべてみました。
濠川、弁天橋下の十石舟の乗り場、酒蔵を臨む伏見の水路、石畳のレトロな「竜馬通り商店街」では、黒い半衿を掛けゆるりと着崩したきもの姿が似合いそう。草履より下駄、カラコロと足早に歩きたくなってきます。きっと、竜馬が定宿としていた寺田屋で、その危機を救った恋人おりょうさんの機敏なイメージが頭を過るのせいでしょう。
到着する頃には、気分はもう「幕末の世に生きる志高き女」。
あまりにも有名な「寺田屋騒動」は、新撰組が入洛する約1年前に、薩摩藩の内部波乱が原因で起こったと言われています。現在は旅館は休業していますが有料で内部見学可能。2階「梅の間」には坂本竜馬の肖像画、おりょうさんが竜馬を狙う伏見奉行所の気配を察知した風呂、それを伝えるべく裸で駆け上がった階段、残る刀傷、弾跡、ドラマや映画、写真では味わうことができない臨場感に胸の高鳴りを感じずにはいられませんでした。
竜馬とおりょうの仲を取り持った女将を祀る「お登勢明神」で手を合わせ思い巡らすのは、竜馬を殺害したのは一体誰なのか?
史実に基づくとされた様々な論評が飛び交う中、「新撰組の仕業ではない」と信じ願うファンもまた多しです。幕末の役者、ヒーロー、ヒロインに、自分の想いや行き方を重ねる人が増えているかの昨今、時代や社会が変われど「自分探し」は人間として尊厳を求める心なのだと思います。
新撰組や坂本竜馬に触れ、「自分探し」をするのにふさわしくはまずは装いから。
きりりと背骨を伸ばし胸を張り、きものの裾や袖口から入り込む少し冷たい風を感じてみてはいかがでしょうか。
  新撰組が生きた京都 伏見

新撰組が生きた京都 伏見

新撰組が生きた京都 伏見

寺田屋

寺田屋

新撰組が生きた京都 伏見

新撰組が生きた京都 伏見



トップページへ
▲ ページのトップへ戻る
Copyright(C)2003 kimono Internet Club ALL RIGHTS RESERVED.